僕達はどこまで自らの身体性を拡張してゆけるのか? 現代の発展とは身体性の拡張である【思考の垂れ流し】

身体性という言葉を知っているだろうか?

【身体性】とは、一言では言い表し切ることができない。

なぜならば、身体性とは実に様々な分野、捉え方があるからだ。

まず、体の運動神経としての身体性。

僕達が体の感覚器から受容できるという身体性。

意図的に物体に作用できるという身体性。

などなど、捉え方によっては実にさまざまなものとなるのです。

そして、今回はこれと現代の(特に生活についての)発展という点をまあ混ぜ合わせてみようと思う。

現代の発展をどう捉えるかは個人の自由だけれども、どんな風に変化をしているのか、どのような方向に向かって発展しているのかまで考えることは少ない。

けれど、考えてもみればまず最初に思い浮かぶのは、僕達の「身体性の拡張」なのではないかと思うわけですよ。

そんなわけで、身体性の拡張と生活科学の発展について以下で見ていこう。

 

目次

 

1.身体性の拡張とは

まずは身体性と身体性の拡張についてちょっと説明。

ここで定義する身体性とは【自らが影響を与えうる、影響を受容できる範囲】と【自らの意識にある「自分の縄張り」という感覚】の二つである。

自らが影響を与えうる、受容できる範囲というのは何も直接的物理的に影響を与えるものでなくて、たとえば、自分が命令して動くモノがあるならばそれも自らの身体として捉えられる。

そして、「自分の縄張り」という感覚については、これはちょっと説明が難しい。

たとえば、自分の部屋に誰かが急に入ってきたらどうだろう?

不快感を覚えないだろうか?

それはまさに、自分の部屋それ自体が自分の体の延長線上(縄張り)にあり、それを許可もなく侵されたからと捉えることができる。

そういう感覚を覚える範囲も身体性の一つと言えるのだ。

さて、じゃあ身体性を定義したところで、この拡張とは何を指すか?

とまあ、定義を理解していただければこちらはすんなりと受け入れられるはずだ。

【自らが影響を与えうる、影響を受容できる範囲】というのが拡張されるというとはつまり、これまでは手で直接動かすしかなかった、遠くにあってわざわざそこまで行かなければ動かせなかったもの。それが一言発するだけで動かせる。

また、たとえば、これまでは目で見るしかなかったものが、多くのカメラを通して見ることができるようになった、というのは受容的な意味での身体性の拡張だ。

まあ、分かりやすい感覚としては、手が遠くまで届くように伸びた、とか、目がいろんな場所に増えた、という感覚だろうか。身体感覚を、より遠く、より広く、より多く、他のもので代用できるようになるイメージだ。

そして、【自らの意識にある「自分の縄張り」という感覚】が拡張されるというのは、つまりは「自分の意識」がどこまで広がるかということだ。

たとえばTwitterなんかもこういう意味での身体性の拡張だ。自らの居場所を物質的な世界、人間関係の世界、だけでなく、バーチャル的な言葉やアバターによって作成される「自分」にまで広げている

縄張りの拡張はこうしたイメージだ。

 

2.身体性は時代の進歩と共に拡張されてゆく

さて、本題。

僕達の身体性は時代の進歩と共に拡張されてゆく

特に生活における発展というのはこの側面が強い。

古来、人間はまずもって影響を与えられる範囲、影響を受容できる範囲は限られていた。少なくとも、自らの手、足を用いる、もしくは声を上げて他人に命令する程度のことしかできなかったわけだ。

それが、徐々に広がっていった。

たとえば、電話。これは「話す」という対面でしかできなかった行為を超長距離でも可能にした。まさに身体性の拡張である。

また、発展という意味からは少し逸れるが、こうして考えてみると文書も身体性の拡張手段の一つではないか。

手紙とかそういったものではなく、そうした「世界」に対する拡張ではなくて「時間」に対する拡張だ。これらは自らの意思、命令、行動を後世に残すことができる。

これも言うなれば、時間を横断する形で身体性を拡張できると言える。

とはいえ、今日では「今ある形而下の世界」に対する拡張こそが発展の主眼だ。

最大の拡張と言えばインターネット

これは知の集積として時間的な拡張もできるかもしれないが、その側面は小さい。

どちらかといえば、現在必要な情報、影響を自らが能動的に得るためのツールとしての身体性の拡張の面が大きい。

たとえば、インターネットによって何ができるかというと、世界中に対して「目や耳」を持つことができる。また、能動的には「口」を持つことができる。

こうしたもののおかげで、我々は今日でも世界中に目を持ち、耳を持ち、情報を得ることができるのである。

さて、そんな影響を与える、受容する側面としての身体性の拡張だけれど、何も世界的なことに目を向けずとも日常生活に溢れている。

たとえば最近、Googleより発売されたAlexa

ポンと置いといて話し掛ければ、それに対応した情報などを提示してくれる。音楽を流して貰うことだって可能だ。

声を掛けるだけで遠隔でさまざまな動作をしてくれる。これこそ拡張である。僕達はもうハンズフリーで検索できるし、音楽を流すことだって可能になったのだ。

そして、他にもスマート家電というのが一時期話題になった。

全ての家電をネット的に繋ぐことで、全てをワンデバイスで管理することができる。

スマートホン一つで簡単に全ての家電を動作させることが可能なのだ。わざわざ家電に近付く必要もなければ、なんなら外出中に操作することもできる。

これは「手」だ。スマートホンに家中の家電を操作できる手が付随するようになったのである。これも拡張の一つと言える。

そして次。

僕達の「縄張り」としての身体性の拡張。

これについては身体性の説明でTwitterを例に挙げたが、ここでは僕はVRというのを取り上げてみたいと思う。

VRというのはこの「縄張りとしての身体性」に加えて、「影響を受容する身体性」というのが兼ね備わっている。

たとえば、VR空間はどうだろうか?

これは双方の身体性ともに拡張していると言える。

縄張りとしては、自らのプライベートな空間が物質的な世界のみならずバーチャルな世界にまで拡張されているという意味で拡張されている。

そして、影響を受容する身体性としては、たとえばホラーゲームなどはこれまでテレビ画面でしか体験できなかったものがリアルな感覚として体験できるようになる。

すなわち、受容できる感覚が増加したのである。

現代の発展というと実生活の便利な器具に目を向けがちだが、それよりも現代ではバーチャルへの身体性の拡張という側面が非常に大きい

インターネット、TwitterなどのSNSVR、いずれも自らの感覚を物質界でなくバーチャルに拡張するものばかりだ。

これの意義はとても大きい。

物質世界しか拡張できないのでなく、むしろ、世界そのものを創出して拡張していると言える。身体性の拡張とはまた違った規模での拡張が発展の中では行われているのである。

 

3.僕たちの身体性の拡張の限界はどこか?

僕達の身体性の拡張の限界とはどこだろうか?

そもそも、バーチャル世界のように世界そのものを拡張できる以上、身体性の拡張に限界はないのではないだろうか?

しかし、物質世界での身体性の拡張の限界は個人的には割りと近いように思える。

なぜならば、影響を与える範囲には制限があるからだ。

最低限、自らが影響を与えて良い範囲は自らが管理でき、そして私有している範囲に限らなければならない。法的にも倫理的にもそれは当然の規制だ。

やろうと思えば、他人のスマート家電を動作させたりなど多少腕のあるクラッカーならば簡単だろう。しかし、これを公に身体性の拡張として提供することは許されない。

そうした意味でも、物質世界に限って言えば身体性の拡張の限界はそこまで遠くないと思う。限界は・・・アンドロイドではないだろうか。

自らの意思の通りに動かせる人間をもう一人、つまり、人間それ自体を拡張する

おそらく、この辺りが限度だろうとは思う。

けれど、そこにバーチャル世界が関わってくると話は別だ。

可能性は無限大。

とはいえ、それはあくまでも世界を創出し、その世界への拡張を身体性の拡張と捉えた際の話である。

バーチャルにおける身体感覚の提供、新たな形での居場所の創出、という意味で限界があるとすればまあ最高峰は・・・ライトノベルのソード・アート・オンライン的な世界だろうなあ・・・。

 

4.まとめ

・発展とは身体性の拡張の面がある

・特に生活に寄与する発展は身体性の拡張の側面が大きい

・バーチャルは身体性の拡張のブルーオーシャン

以上。

とはいえ、僕達はこれからもこの拡張をいつの間にか、そして、知らない内に受け入れてしまうのでしょう。

それに気付かないのは少し悲しいので、一つ一つ丁寧に発展を受け入れていきたいところですなぁ。