僕らの世界は爆発的に広大になってゆく ~VR、AR、MRの時代に寄せて~
世界とは何だろうか?
とまあ、やや哲学的な問いから入ってみよう。
「哲学的」とは言っても、ここで言うソレは学問的なものではなく、もっとふわっと、はふはふっとした概念的なものと捉えて頂きたい。なぜかって、別にここで学問的な話、議論をしようというわけではないからだ。
と言っても、宗教的な観念の話でもないし、けれど、それを否定するつもりもない。
言うなれば、個々人の思考の自由。しかし、そこに共通の題として「世界」を中心に据えて考えて貰えるとありがたい限りだ。
さて、「世界」とは何か。
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どうだろうか、諸賢。何か思い付かれただろうか。
さまざまな考えがあるだろう。それはきっと僕にとってどれも非常に興味深いものに違いない。だが、ここでは一つ、この記事のタイトルに寄せて考えてみたい。
~VR、AR、MRの時代に寄せて~
世界とは何か。それを僕は「自身が知覚し、知ることのできる全て」だと今回のタイトルに寄せて考えたい。
VRなどの話に入る前に、まずこの考えについて少し記しておこう。
まず、「世界」とは。イメージとしてすぐに思い浮かぶのは地球だ。しかし、地球を視覚的にイメージしたところで、それを世界というには惜しい。
無論、視覚的に捉えられる「物質として在る全て」を「世界」と定義するのも一理あるとは思う。究極の客観(神の視点)からすれば、ある意味、ここに在る物質全てを括って「世界」と呼ぶのは正しいじゃないか。
ただ、どうやったって自分自身しか観測者たり得ない「主観」を持つのが僕たちだ。だとすれば、僕たちが「世界」と呼ぶものは「自分自身が認識し、感じ、考えるモノ全てを括ったもの」だと僕は考えたい。
それは物質に限った話ではなく、自分の思考、思想、嗜好、もしくは人間関係とかそれに伴う喜怒哀楽とか。あるいは、今回のテーマに則して言うのならば、何らかの情報とかゲームとかもそうだろう。
とはいえ、僕らが普段使う「世界」とはそんな感じじゃないだろうか。「自分の世界」とか言うじゃないか。思考や感覚を世界と捉えた言い回しだ。
さて、本題に移ろうか。VR、AR、MRと「世界」のお話。
VR、知っての通り、Virtual Reality
すなわち、仮想現実だ。コンピュータなどで作り出された架空の空間を、さもそこにいるかのように体験することができると考えれば分かりやすい。
AR、VRよりは馴染みナシ、Augmented Reality
英語だと馴染みがないかも知れないが、日本語では拡張現実と呼ばれている。現実世界に情報を新たに映し出すようなもの。よくアニメとか漫画である、なんかこう、人を見たらその情報が映し出されるメガネみたいな。
・・・あ、スカウターだこれ。スカウターだよ、AR。イメージしにくい人はスカウターを思い浮かべて貰えると分かりやすいと思う。あれの、物の情報とかも見えたりするのを考えると分かりやすい。
MR、近年活気づいてる、Mixed Reality
複合現実。ARを更に発展させたようなもの。アニメとか漫画でよく見るのは多分こっちの側面が強い。例えば、現実世界にさもヴァーチャルなキャラがいるように見せたり、こう半透明な画面を出してハンドサインで操作したり。
電脳コイルのメガネとかこれじゃないかな(やりすぎだけど)。
VR、AR、MRの違いって何? って方は、これで大まかにはイメージして貰えたかな。今回の話では、大して意味はないのだけれども。
さて、僕たちの「世界」はどう変わっていくか。
「世界」とは、「観測」であり、「認識」だ。まず、僕たちは昔、インターネットなどなかった時代、情報は周囲の人やテレ部、新聞などで得るしかなかった。今となってはこれらで得られる情報は非常に「受け身」なものだった。
つまり、現在いる環境こそが「世界」だったわけだ。自ら広げようとするには、その環境から少しだけでも「未知」に足を踏み出さなければならなかったわけだ。そう、世界を広げるのは、存外、大変だったのだ。
では、今はどうだろう。インターネットの普及、インフラ、技術、さまざまなものの発展によって「未知」に足を踏み出す前に「未知」について知ることができるようになった。それも「受け身」でなく、とても「能動的」に。環境に支配されず、同等に「知」を得る機会がある。これは自らの世界の拡張の一助となっている。
また、インターネットでのコミュニケーション等では、これまで関わりのなかった別の個人、集団の世界を共有し、互いに拡張し合える機会を得られる。更に、どこでもいつでも連絡が取れるというのは人間関係やビジネスに与える影響も大きく、世界の拡張というよりは世界の変容、深化に関わってくる部分だ。
これ以外にも、ゲーム、特にオンラインゲーム等はまさにヴァーチャル世界への僕たちの世界の拡張と言える。オンラインゲームではコミュニケーションや行動を通して、現実世界とは別途の人格を持つ自分を作成し、現実とは別世界として認識できる。
さて、VR、AR、MRはどうか。これらは爆発的な世界の拡張に他ならない。
VRはヴァーチャル世界への拡張、進出を推進する。現実世界と同等の振る舞いをVRでできるのであれば、その身体体験、すなわち、視覚、聴覚といったものは、よりヴァーチャル世界を身近に感じる手助けとなるだろう。
それは、これまで画面上のヴァーチャルとして在った文字、視覚情報を、現実と相違ない言葉、体験として得られるようになる。例えば、外国の景色を見ようとする時、画面で見るのとVRで見るのでは僕たちの「知覚」として得られる世界は異なる。無論、VRで得られる知覚の体験としての世界は画面で見るそれと段違いだ。
また、現実では無理だったものをヴァーチャルで表現、行ってきたことを、さも現実の体験として得られるこれは、よりヴァーチャルを身体的な体験として、僕たちのヴァーチャル的な世界への拡張を促進してくれるだろう。
AR、MRは現実世界とヴァーチャル世界の融合。これは、現実世界の拡張とも言えるし、ヴァーチャル世界への進出、もしくはヴァーチャルが現実へ進出していると言っても構わないだろう。これはこれまでの知覚の体験としては全く新たなものである。元々ある世界への僕たちの世界の拡張、ではなく、近年新たに新規作成された世界、知覚の体験への、僕たちの世界の拡張だ。
僕たちの想像力次第で無限に拡張される世界が、ここに新たに作成されたわけだ。しかも、現実とヴァーチャルを融合させたことで、さも現実が無限に拡張されていくような、そんな世界が。
VR、AR、MRは、利用次第で無限に僕たちの世界を拡張してくれる。これを上手く利用しない手はない。けれど、広大かつ無限大となっていく世界で、果たして僕たちはその内のどれだけを知覚できるのだろう。
もしかすると、僕たちの「世界」は絶対的には広く、大きく、だが、相対的には小さくなってゆくのかもしれないな。